いま、過去を振り返る作業をしている
そうすると、所々で、小さな枠のなかにいたんだな、とおもった。
社会の成り立ちは、いろんな枠があり、そのなかでひとは生きている。
枠に入る資格などもあり、それがないと、いきたい道へもいけない。
そんな錯覚や、事実として、そういう時もある。
それって、狭いし、悲しいな、と思ってしまう。
だから、入るために、資格をとり、枠へと入る。
けれど、一度、その枠におさまると、これまで自由だったことや考えも、違う視点へと変わることがある。
そしていつしか、その枠に抑えられて、身動きがとりにくくなってしまう。
考え方だって、なんとか、その枠のなかで生きることを選ぶようになるから、窮屈になり、本来、いきたい道へといくことが難しくなってしまう。
でも、時間と共に、それも仕方ない、と片付けてしまうようになる。
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これは、個人的な考え方です。
そうはいっても、過去の自分があり、いまの自分がある。
それもまた、事実ではあるから、たいせつな時間と経験だった、とは思えるようにもなった。
自分のことを認めてあげるために、いまは、過去を振り返り、かたちにしている。
まだしばらくは、そんな作業を続けている。
振り返るようになると、いろんな感情が湧いてくるもの。
日々、ひとつひとつに向き合い、自分のなかに落とし込む作業は、こころがかるくなるような、そんな感覚。
偽ることをやめて、自分を認めた先に、どんな景色がひろがるのかな。
いまは、それが楽しみのひとつ。
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枠というのは、本来、あるようで、ないもの。
あるとするならば、それはひとがつくりだしたものではないでしょうか。
ないことでの良さと、ないことでの難しさ。
そして、あることでの難しさもあり、良さもある。
ひとがつくりだすものに、偏りがないことはない。
どこか、傾いているものである。
でも、完璧などは、存在しない。
存在するべきでもないような、そんな気もする。
不完全だから、そういう美学もある。
いろいろ言うはいうけれど、上手に、つき合っていく必要があるのだ、と、そう想う。
過ぎてしまったこと、過去は変えられないけれど、これからのことは、変えることができる。
いろんなきっかけはあるけれど、結局は、自分で決める。
自分で決めることが、責任にもなり、活力にもなる。
結果、いい自分になっているような気がするのだ。
