月のはじまり

十月になり、もう一週間が経つ。

九月も終わるころ、まだ日中は暑いね、なんて話していたのに、それがあっという間に寒さを感じるようになった。

気候変動は止まらない。

いつの話しかは忘れてしまったけれど、ある本に記してあった。

日本は昔、春と秋だけの、二季だったと。

え、そうなの、と驚いた。

でも、いまは、そのどちらも段々と短くなっているように感じる。

先々を想うと、どうなっていくのだろう、と漠然とした不安を抱いてしまうこともある。

さくじつ、タキナオさんの個展「吹けば飛ぶような」に伺った。

店にも、タキさんの画を飾らせていただいている。

タキさんの画は、すーっと引き寄せられるように、見入ることができる。

芸術とは、無縁のところで生きてきた。

僕は、そういう意識でいた。

いまの歳になり、過去を振り返った時に、おもう。

裕福ではなかったから、そういう縁がなかったのかな、

ただ単に、興味がなかったから縁がなかったのかな、

どちらなのかは、よくわからない。

芸術というものは、どこか遠いところにあって、そもそも、自分のいる世界とはほど遠い世界のもの。

そんなおもいがあったのだろうとおもう。

自分には、現実味がない。

多分、こころのどこかで、お金がないからと、遠ざけていたようにもおもう。

店を構え、いろんなひとと関わるようになり、タキさんとも出会った。

画のことは、いまでもわからない。

でも、いいな、とおもう。

暮らしのなかに、画があり、芸術があるというのは、どういう感覚なのだろう。

豊かさ、なんて簡単に表現してしまうけれど、豊かさとは、いったい何のことをいうのだろう。

答えのないことを淡々と綴ってしまっている。

、、

タキさんの創り出す画と空間に触れて、頭のなかはふわふわとした。

それがなにを意味しているのかはわからない。

ただ、もっと、タキさんの為に、なにか自分にできることはないかな、とおもった。

いまの自分には、まだまだ、そんなちからがない。

それが悔しくもおもった。

でも、タキさんは、会えたことを喜んでくれた。

悔しいおもいと、ふわふわとした想いが混じり合って、よくわからなくなってしまった。

一緒にいったひとは、僕とおなじように、画のことはわからない、といっていた。

美術館にも行く機会があまりなく、芸術というものが身近にない。

ふたりで、そんな話もした。

でも、そのひとは、タキさんの空間に足を踏み入れた瞬間、泣きそうになった、といった。

いろいろ想い、その感情を抑えた、といっていた。

いまの歳になり、縁をいただき、触れるようになった。

もっと早くに、そういう機会に触れていたら、なにか変わっていたのかな。

それとも、いまだから、その良さに気付けるようになったのかな。

、、

そのひととは、またいこうね、とはなした。

ひとの創る手仕事が、段々と無くなっている時代だからこそ、

そういうものに目を向け、触れていきたいとおもう。