十月になり、もう一週間が経つ。
九月も終わるころ、まだ日中は暑いね、なんて話していたのに、それがあっという間に寒さを感じるようになった。
気候変動は止まらない。
いつの話しかは忘れてしまったけれど、ある本に記してあった。
日本は昔、春と秋だけの、二季だったと。
え、そうなの、と驚いた。
でも、いまは、そのどちらも段々と短くなっているように感じる。
先々を想うと、どうなっていくのだろう、と漠然とした不安を抱いてしまうこともある。
✽
さくじつ、タキナオさんの個展「吹けば飛ぶような」に伺った。
店にも、タキさんの画を飾らせていただいている。
タキさんの画は、すーっと引き寄せられるように、見入ることができる。
芸術とは、無縁のところで生きてきた。
僕は、そういう意識でいた。
いまの歳になり、過去を振り返った時に、おもう。
裕福ではなかったから、そういう縁がなかったのかな、
ただ単に、興味がなかったから縁がなかったのかな、
どちらなのかは、よくわからない。
芸術というものは、どこか遠いところにあって、そもそも、自分のいる世界とはほど遠い世界のもの。
そんなおもいがあったのだろうとおもう。
自分には、現実味がない。
多分、こころのどこかで、お金がないからと、遠ざけていたようにもおもう。
店を構え、いろんなひとと関わるようになり、タキさんとも出会った。
画のことは、いまでもわからない。
でも、いいな、とおもう。
暮らしのなかに、画があり、芸術があるというのは、どういう感覚なのだろう。
豊かさ、なんて簡単に表現してしまうけれど、豊かさとは、いったい何のことをいうのだろう。
答えのないことを淡々と綴ってしまっている。
、、
タキさんの創り出す画と空間に触れて、頭のなかはふわふわとした。
それがなにを意味しているのかはわからない。
ただ、もっと、タキさんの為に、なにか自分にできることはないかな、とおもった。
いまの自分には、まだまだ、そんなちからがない。
それが悔しくもおもった。
でも、タキさんは、会えたことを喜んでくれた。
悔しいおもいと、ふわふわとした想いが混じり合って、よくわからなくなってしまった。
一緒にいったひとは、僕とおなじように、画のことはわからない、といっていた。
美術館にも行く機会があまりなく、芸術というものが身近にない。
ふたりで、そんな話もした。
でも、そのひとは、タキさんの空間に足を踏み入れた瞬間、泣きそうになった、といった。
いろいろ想い、その感情を抑えた、といっていた。
いまの歳になり、縁をいただき、触れるようになった。
もっと早くに、そういう機会に触れていたら、なにか変わっていたのかな。
それとも、いまだから、その良さに気付けるようになったのかな。
、、
そのひととは、またいこうね、とはなした。
ひとの創る手仕事が、段々と無くなっている時代だからこそ、
そういうものに目を向け、触れていきたいとおもう。